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[Q&A] パク・チャヌク監督:『親切なクムジャさん』

「ラストに、雪が必要な意味は
見る方それぞれに感じてほしいね」


※このインタビューは『TVブロス』(11/09発売)用にインタビューした全Q&Aです。ネタバレもかなり多く含んでいますので、なるべくなら映画観賞後お読みください。

Park.jpg──シネスコ(シネマスコープ・サイズ)を使っているのはなぜなのですか?

パク・チャヌク 私が最初にシネマスコープを使ったのは『JSA』で、スケールの大きさを見せつけたかったからワイドスクリーンを使ったわけだけど、その後抜け出せなくなったんだ。韓国では普通のサイズがヴィスタヴィジョンなんだけど、あれを見ると、なんだありゃ、TVじゃないか、と思ってしまってね。以来、ずっとシネスコを使っている。それに第一、人間の視野って思った以上に横長に広く見えるらしく、シネスコがもっとも人間の視野に近いといわれている。ぼくの目から見れば、ぼくのはシネスコではなく「スタンダード」で、他の監督が使っているヴィスタヴィジョンやスタンダードは「ナローヴィジョン」と呼びたいぐらいだよ。

──『オールド・ボーイ』でチェ・ミンシクさんが金槌で大格闘する場面はワイドスクリーンの効果がてきめんでした。今回、ワイドスクリーンがご自分でハマったなぁと思われるのはどんなシーンですか?

パク・チャヌク ペク先生(チェ・ミンシク)に子どもを殺された遺族の人たち9人が廊下に横に並んで椅子に座っている場面かな。あれはワイドな画面が効いていたね。

──ソン・ガンホさんやユ・ジテさんなどなど、〈復讐3部作〉でこれまでの主要キャストの大多数がカメオ出演しているのは、ファンにはうれしい限りです。ほんとに意外な役柄を演じたりしていますからね。

パク・チャヌク それはね。関連性のない3部作に連続性をもたせるため、前2作の出演者全員にカメオ出演をお願いしたんだ。ペ・ドゥナさんだけがTVドラマの仕事が急に入ってダメだったが、ほとんどのキャストがノーギャラでこころよく出演してくれたんだよ(笑)。

──まぁ、ぼくの大好きなペ・ドゥナさんだけが……なぜですか?

パク・チャヌク ペ・ドゥナさんには当然出てもらう予定だったんだけど、急にTVのドラマの仕事が入ったんだよ。もともとは『オールド・ボーイ』でユ・ジテさんのお姉さん役をやっているユン・ジンソさんが演じた「あ、親切なクムジャさん」という台詞がある女性がペ・ドゥナさんの役だったんだ。それで(撮影に)来られなかったので、彼女のために、もう一回設定したわけなんだ。それは養子縁組斡旋センターにクムジャが訪ねる場面で、「そういうことはお答えできません」という役だった。それでもペ・ドゥナさんはまたも来られなかったので、それで急遽、囚人役でも出ている女性に代役をお願いしたんだね。髪型とかすっかり変えたので、違う人間に見えるだろうけど、ペ・ドゥナさんに出てもらえなかったのはとても残念だった。『リンダリンダリンダ』はご覧になりましたか? 彼女は輝いていたね。
 
──当然! でも『復讐者に憐れみを』のペ・ドゥナがいいんです。もっこりします(笑)。

パク・チャヌク ははははは(大笑い)。

──話題を戻しましょう(笑)。〈復讐3部作〉はパク監督が韓国の偉大な俳優に捧げていますね。『復讐者に憐れみを』はソン・ガンホさんに、『オールド・ボーイ』はチェ・ミンシクさんに。そして今回はイ・ヨンエさんにです。彼女がいたからこそ、奇想天外な復讐も説得力をもつのですが、彼女の復讐が優雅でしたね。

パク・チャヌク 今回、特別な想いで書いた企画でもあった。というのも、。『JSA』では残念ながら、彼女の演技力を深く掘り下げる余裕がなかったからね。なんとしても自分の中でその「復讐」を遂げようとする想いが強かったんだ。クムジャは内面的にとても複雑な役柄だったが、撮影前に周到に演技プランを用意して、彼女は「もう1回、もう1回」と私を困らせるほどの完璧主義に徹してくれた(笑)。韓国映画界では、男優のイ・ビョンホンさんに匹敵する完璧主義でもある。

 彼女の魅力の一番はやはりそのルックスなわけだが、どんなベテランスタッフに訊いても誰もが、彼女を撮るのは楽しいっていうんだね。イ・ヨンエさんはルックスも完璧だが、美しさをけっして誇示せずに、ひけらかさないのが素晴らしいんだよ。キャラクターに簡単に同化して、演じることができる。今回、彼女はちょっと下品な赤いアイシャドーもしてくれた。また女子高生の制服まで吹き替えなし(!)で挑んでくれた(笑)。頭が下がるよ。

Kumuja19.jpg


──冬だというのに、夏物のワンピースを着て出所するクムジャさんですけど、十変化のようにいろんな洋服を着て、当初ストレートヘアだったのが、やがてウェイビーな髪型、1940~50年代のフィルムノワールの〈ファム・ファタール〉を連想させる髪型になったりしますね。赤いハイヒールや黒いブーツを履いて、カツカツと威勢よく歩く姿にホレボレします。監督は相当な映画狂だとうかがっています。彼女を造型する意味で、何か影響を受けた映画とかありますか?

パク・チャヌク 特にほかの映画で参考にした映画はなかったね。ただ、この映画でクムジャさんが出所して最初に会う刑務所仲間は(ソ・ヨンジュが演じている)美容師という設定だっただろう。たぶん2人は同性愛の関係にあったと思う。クムジャさんはけっして彼女を愛していたわけでなく、(復讐のために)利用していたのだけど、そういうフリをしていただけなんだよ。相手は本気になってクムジャのことを愛している。あの美容室の場面で、刑務所での出来事がカットバックされるけど、美容訓練の場面があって彼女がクムジャの髪の毛を愛撫するショットを紹介的に挿入している。だから、美容室ではおそらく、クムジャは彼女のまごころ(愛)を受けて、ありったけの技術でウェイビーにされ、華麗に変身したんだと思うよ。

──ずばり訊きます。クムジャさんが勤めていたケーキ屋が「ナルセ」というのは、成瀬巳喜男監督からのネーミングですか?

パク・チャヌク もちろん、成瀬巳喜男監督の名前が由来になっている! クムジャが就職するケーキ屋の主人の留学先は最初フランスを考えていたんだ。ところが専門家の方に訊くと、パティシエの世界で、ケーキをああいうふうにデコレーションする技術は、日本が世界一だというんだ。それでインターネットで調べてみると、本当に日本で作られたケーキのほうがきめ細やかなデコレーションがほどこされているんで、じゃあ、日本へ留学したことにしようとなった。それでフランスっぽい名前から、日本風な名前へ変えることになったというわけさ。できるなら映画監督の名前をいただこうと思って考えたときに、「クロサワ」だと黒澤明監督は男性の世界を描く監督なので、ちょっと合わない気がした。また、小津安二郎の「オズ」だと、韓国の人はあまり日本語的な響きを感じないので、私が敬愛していて、女性の世界を描くのが得意で、韓国の人が名前を聞いても日本っぽい「ナルセ」に決めたんだ。

 もうひとつの理由があってね。『オールド・ボーイ』で監禁されていたオ・デスがこの世界に戻って、初めてミドに会う日本料理店の名前をそもそも「アキラ」(*)にしようと思っていたんだけど、看板を変えるお金がなくて、それができなったんだ。だから今回こそは、絶対に日本的な名前をつけようと思っていたんだ。成瀬映画といえば高峰秀子さんだけど、高峰さんは私の理想の女性でね。韓国がイ・ヨンエさんだとすると、高峰さんが一番きれいな女優さんなので、ゆかりがあるその名前を使わせていただいたわけだよ。

*大友克洋の「AKIRA」か、はたまた小林旭の「アキラ」だったのか、訊けずじまいだった。

──高峰秀子さんとは、いつかどこかでお会いできるかもしれませんよ。

パク・チャヌク はははははは(笑い)。

──オープニングで出所のときに、クムジャさんは(韓国の出所祝いの風習である)白い豆腐をひっくり返しますよね。それで、ラストでその豆腐に変わる白いケーキが登場しますね。そのときに、ひっくり返した意味がなんとなくわかったんです。このように巧妙にプロットが配置されていますが、脚本を書くとき、プロットはどうやって考え、配置しようとつとめていますか?

パク・チャヌク あの白い豆腐を(出所したクムジャに)差し出したのはキリスト教の伝道師で、クムジャさんはそれを食べない。つまり、ほかの人間から差し出されたもので許されようとは思っていないわ、という固い決意を表しているというわけなんだ。この映画はよく「宗教的な映画ですね」と言われる。例えば、クムジャの顔に光が差していたり、ポスターにあるように聖母マドンナ的な姿が多いもんだから、そうよく言われんだが、私は考えが違う。宗教的というと、主人公であるクムジャが神のような超越した存在であって、クムジャから審判を受け、許されて、救いを得られるという構造になると思うんだけど、今回はまったく違って、クムジャはもっと利己的で、自分のためだけにすべての行動を起こしているんだよ。贖罪についてもこの程度なら許してもらえるだろう、という彼女の判断基準が行動の正当性を表している。だから復讐を遂げたときに、亡くなったウォンモの幽霊が出てきて、「あなたのことを許します」というような言葉をクムジャは聞きたかったと思うんだよ。クムジャの救いは、宗教的な信仰に頼らず、自分で動いてコトを起こして心の平穏を得ようとして初めて得られるものなんだ。だからまったく宗教とは関係なくて、キリスト教徒でもないし、法華経の教典をみせるけど仏教徒でもない。あえていうなら「クムジャ教」だね。

 それで本題に戻るけど、あの白い豆腐を差し出した人はキリスト教の伝道師で、それをクムジャは食べないんだ。つまりあの冒頭のシーンは、ほかの人間から差し出されたもので許されようとは思わない、というクムジャの固い決意を表している。反対に最後の生クリームの白いケーキは自分の手でまごころを込めて作ったケーキであるわけなんだ。このように、すべてのショットには意味がある。さまざまなディテールを重層的な積み上げた上で訴えていかないと、せっかくはりめぐしたプロット(伏線)も意味をなさないだけに、私の映画にとって脚本はとても重要な要素でもあるんだ。

──ところで、被害者の家族のみんなで食べるあのケーキの中にはペク先生の血が入っているのですか?

パク・チャヌク (きっぱりと)それはまったく違う。けれども、韓国でもペク先生の血をビニールで集めて、真ん中の穴からバケツに注いで集めるシーンがあるんで、「あのケーキは血で作られている」なんて噂が流れていてね。それを聞いて耳を疑ったが、怒るというより大いに反省させられたんだ(笑い)。見た観客がそういうふうに思うってことは、自分がこれまでどんなにグロテスクなシーンを撮ってきたんだろうと思って、反省したんだ。実はこれを見た私の母親まで、「あのケーキはペク先生の血で作ったんでしょう!」と詰問されて、大いに参った(笑)。

──『オールド・ボーイ』のラストシーンも雪の場面でしたが、今回も素敵な雪の風景があります。イ・ヨンエさんの頬に雪の粒が下りてきて、ジュワッと溶けていくさまを見事に映し出しています。また引いた画面でも雪がしっかりと見えているのが素晴らしいですね。実は4,5年前に、撮影監督のジュゼッペ・ロトゥンノさん(現在、イタリア国立映画学校で教鞭をとっている)のローマのアトリエにうかがい、『フェリーニのアマルコルド』での雪の撮影方法についてうかがったわけです。『羅生門』では宮川一夫さんが雨に墨汁を入れましたよね。それで、どんな工夫をしたのか、訊いたわけなんですが、イタリアのチネチッタ撮影所では伝統的に降雪機にシャボンを入れて、あの独特の雪の感じを出すそうなんですね。あの雪のシーンはどうやって撮ったのですか?

パク・チャヌク 面白いご指摘で感謝します。実に興味深い質問だよ。映画史をたどっても、雪のシーンの成功例が本当に少ないからね。『オールド・ボーイ』のエンディングはそういう意味でも挑戦する価値があったと思う。あれは、ニュージーランドで撮られたものだが、現地の特機スタッフ(雨や雪などを降らせるスタッフ)が用意した〈雪〉は紙吹雪みたいで、肌に触れてもなかなか溶けず、風が吹くとゆらゆら揺れたんだよ。『マトリックス』や『ミッション:インポッシブル』も撮影したスタッフであるにもかかわらず、私たちが知っている本物の雪に見えなかったんだ。それで私たちはふるいにかけたりして、小さな雪の粒だけを残して実際の撮影に使ったものだ。だが、彼らは「そんな雪は雪じゃない」と最後まで譲らなかった。われわれも体験したが、ニュージーランドの雪の粒は固いのだからしょうがない。そこで今回はどこまで本当の雪が撮れるか、オーストラリアへ行って「雪の撮影」に再び挑戦したわけなんだ。

 それがこの映画のもっとも重要なシーンだったからね。韓国映画ではあなたがいうように、降雪機に石鹸の泡を混ぜて雪を降らせているよ。それだと、人肌に触れると自然と溶けてしまう。クムジャが救われなければならないラストに、雪が必要な意味は見る方それぞれに感じてほしいね。mousato1212

(10月7日@セルリアンタワーにて)


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君はこのラストシーンが想像できるか?
あまりにも哀しく、あまりにも残酷。
復讐三部作 第一弾!

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[Q&A] クリント・イーストウッド監督:『スペース カウボーイ』(1)

clint_eastwood長年やっていると、
自然に多くを学んで
慣れていくものなんだ


 映画ライター稼業を始めて早20年近く。プロフェッショナルに徹する意味で、サインをもらうのはたった2人と決めていた。ひとりはマーティン・スコセッシ師、もうひとりはクリント・イーストウッド師。それ以外からは絶対にもらっていない(ハーモニカ奏者トゥーツ・シールマンスにファンとしてもらったことはあるけれど)。

 今から5年前の夏、ワーナーブラザース宣伝部が粋な計らいをしてくれて、『スペース カウボーイ』の完成記者会見にぼくを招待してくれた。場所はテキサス州ヒューストン、ジョンソン宇宙センター。あのアポロ13号の奇跡の生還を見守った管制センターがある古ぼけた宇宙基地だった。記者会見には、クリント・イーストウッド、トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナーの4人が顔を揃えた。世界各国から選ばれたジャーナリストが50人ほどいたが、何とか1つ、2つ質問できた。自分の質問に御大イーストウッドが答えて(ささやいて)くれたことにすっかり有頂天になったぼくは、会見後、サインをもらい損ねてしまった。

Space_Cowboys それから1ヶ月後、ヴェネチア映画祭に行く予定だったぼくに朗報が入った。オープニング上映に『スペース カウボーイ』が選ばれ、イーストウッド師はリド島まで駆けつけるという。映画祭が始まったオープニングデイの翌日、映画祭主催のワークショップが行われ、イーストウッド師が自身の映画観をたっぷり80分間もも語るシンポジウムが行われた。そして会見後、イーストウッド師はヒューストンからヴェネチアへ、世界を半周して追っかけをしている東洋人のぼくに、「Thank you」とつぶやいてサインをしてくれた。

 ここに採録するのは、昔むかし筆者が「映画バカ一代ドットコム」というサイトに書き記したイーストウッド師の〈肉声〉だ。その後、『ブラッドワーク』『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』といった快作を発表。70歳を過ぎてなお、イーストウッド師の手練の映画術はますます凄味を増してさえいる。これからのイーストウッド映画を読み解くための格好の教材として、めちゃくちゃ長文だけれど、採録させていただきます。

   *   *   *

 2000年8月30日夜、第57回ヴェネチア国際映画祭は『スペース カウボーイ』をオープニング上映に幕を開けた。そのセレモニーでは長年の映画への功績に対し、イーストウッドに栄誉金獅子賞があたえられ(プレゼンターはシャロン・ストーン)、イタリアのマスコミは、マカロニ(スパゲッティ)・ウエスタンでスターダムにのしあがった「帰ってきたヒーロー」を大々的に取り上げた。その翌日、映画祭主催のワークショップが行われた。列席者は《クリント・イーストウッド・トリビュート》(多くの代表作が回顧上映された)のディレクターの映画評論家ルチアーノ・バリゾーネとジュリア・ダグノーロ・ヴァーラン、『カイエ・ドゥ・シネマ』誌からニコラス・サーダ編集長とセルジュ・トゥビアーナの4氏。答えるは、われらがイーストウッドだ! 80分間のトークはわが映画人生最大の至福のときであった。

※この文章は『スペース カウボーイ』のパンフレットに掲載されたものを加筆・訂正、イーストウッドの生の声を集めた〈完全版〉です。翻訳を協力してくれた水原文人くん、Thanks!

(「映画バカ一代ドットコム」より)

   *   *   *


小説や脚本を読んで、
単純に面白いかどうかだよ


──どのように物語を選ぶのですか? 

クリント・イーストウッド それほど大げさな心理的プロセスはない。まず小説や脚本を読んで、単純に面白いかどうかだ。それしか考えない。主人公に興味がいだけるか、演出上でチャレンジできるものがあるか、それだけだ。自分向きのキャラクターでなかったら誰か人にやらせる方向性も考える。それから俳優としてなら、そうした物語をスクリーンで観たいと思うか、その物語の一部になれるかどうかが決め手だね。

 この主人公、フランク・コーヴィンの場合、まず彼が50年代に若者であった時を(観客は)見ているわけだ。現代では半ば引退、あるいは完全に引退していて、妻と暮らしていて、ガレージのドアもうまく直せないくせに技術者ということになっている。そんな感じのアイロニーが他にもいくつかあるからこそ、観客としてそこに共感できるとわれわれは確信したんだ。夢破れて40年経って、彼は結婚していて、子どもも孫もいるだろう。その間にいろいろ仕事をしていて、一般企業にも勤めていたかもしれない。そこまでは特定していないけれども、それでかまわない。われわれが観客として好きに想像すればいいことなんだから。重要なのは、観客が自分で勝手にそういう要素を映画に取り込めることだ。ある人はこう考えるだろうし、別の人は別なふうに考えるだろうし、そのどちらも正しいんだ。

──それにしても、魅惑的なキャスティングですね。

クリント・イーストウッド 彼らは私のファーストチョイスだった。幸いなことに、4人全員が引き受けてくれたので、最初私が決めた一線から下がる必要がなかった。みんな私の尊敬している連中で、ジェームズ・ガーナーとドナルド・サザーランドとはかつて共演したこともあるし、トミー・リー・ジョーンズは私にとってもいつも羨望の的だった。この手の映画としては、とてもいいアンサンブルになったと思う。他のキャストについても、望み通りにいった。キャスティングは鎖のようなものだ。小さい役の善し悪しが大きな役にも反映するから、すべてに気を配るようにしている。

まるで初めて演じているかのように
エモーションを十二分に表現できた


──その4人の共演が素晴らしいのですが、撮影の際は必ずカメラの前で入念にリハーサル(リハーサル段階から撮影する)をして、それでいて本番ではファーストテイクを好まれますね。

クリント・イーストウッド そのほうが強烈なインスピレーションを得られると思う。この映画について「まるで俳優たちが初めてそのセリフを口にしているようだ」とよく言われる。これは私にとって、最良のお世辞だ。まさに俳優が目指して努力していることだからね。つまりはエモーションを、まるで初めて感じているかのように演じること。多くの俳優は何度かはこの感覚を維持できるよう訓練している。だから私だって何度かテイクを回す。何度か誰にも気づかれずにカメラを回していたこともあったけどね。 彼らはみんな素晴らしい俳優たちだから、まるで初めて演じているかのようなエモーションを十二分に表現できたんだと思う。

──『スペース カウボーイ』で、フランク・コーヴィンのリベンジとは自分の夢を実現することです。『ブロンコ・ビリー』『センチメンタル・アドベンチャー』でも夢を追い続ける男たちを描きましたが……。

Space_Cowboys2クリント・イーストウッド その比較は、表面上は成り立つ。だがブロンコ・ビリーが夢見ているのは、もはや存在しない時代だ。あれは時代遅れのワイルド・ウエスト・ショーで、もはや誰も興味を持っていないものだ。でもこちらの『スペース カウボーイ』では、フランクは脅迫まがいのことをして本当に夢を実現する。そこに分析が成り立つとも思えないが、たしかに2人とも夢見る男で、夢を実現する。ブロンコ・ビリーの場合、それはキリスト教的な倫理観や仲間への忠誠といった道徳に基づいたものだ。この『スペース カウボーイ』の男たちも、やはり時代遅れの存在ながら、彼らの技術力は結局、今でも必要になる。彼らが大人としての行動をする限りにおいては、何らかの計画には役に立つわけだよ。

 フランクの要求はチーム・ダイダロスの復活と、かつて行けなかった宇宙に行くこと。彼は、自分と同じように宇宙に行く夢を絶たれたかつての仲間たちにある意味で誠意を感じている。最初に話がもちかけられたとき、彼はすでに引退していて、明らかにかつて自分のチャンスを奪われたことを恨んでいる。彼は頑固で、とても個人主義的な人間だ。こういうキャラクターは、私が以前にも映画で探求してきたものだ。

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[Q&A] クリント・イーストウッド:『スペース カウボーイ』(2)

Eastwood_Unforgiven現実はフィクションで描かれたものと違う。
そこにアイロニーがある


──『許されざる者』も、より暗い視点ながらプロの意識をもつ、歳をとったプロフェッショナルを描いていますね。『スペース カウボーイ』は同じテーマのポジティブなバージョンととれますね。

クリント・イーストウッド ああ。『許されざる者』では元無法者たちが今は無法者ではなくなっているのだが、金に困って、唯一の解決策は再び暴力的な行為をおこなって報酬の金を得ることだと決心する。もちろんあの映画の目的はそんなことは実際に出来ないと示すことだ。暴力でそんなことはできない。あれは反暴力的な映画なんだよ! 彼らがそれでも暴力的な行為をやろうとするとき……つまり、彼らが悪人ということになっているカウボーイを殺そうとする──そうではないことがわかる、誤解されていただけだとわかる──のだが、うまく出来ない。彼らは過去の西部劇が美化していたような凄腕の無法者ではなく、1発目では相手を殺せない。だからあのシーンには大きな苛立ちがあり、大きな苦悩がある。キッドは目も悪く、無法者になる柄でもないのに、無法者に憧れている。だから、ここには大きなアイロニーがある。現実はフィクションで描かれたものとは違うというアイロニーだ。

──そうしたアイロニカルな視点からか、あなたの映画は悪役が実に魅力的ですね。

クリント・イーストウッド そう思うかい? なら、うれしいね。今ちょうど例に挙げた『許されざる者』では、ジーン・ハックマンが演じた悪役は自分自身に満足している男だ。彼は自分が正しいと思っている。彼の銃規制についての見方は歪んでいるにしても、自分の町をうまく運営はしてきたわけだし、権力を持っている。だが彼は一方で、家を建ててポーチに座ってパイプを吸うことも夢見ていて、そういう引退後の生活の夢がある。これは、アメリカ的な家族のあり方についてのある種の批評でもある(笑)。彼はいいところもある男なのだ。ただ問題なのは、彼が発端で本当に自分を必要としている者に耳を傾けなかったことで、彼は明らかに女性の権利について無頓着だといえるだろうし、正義を実践しようとして……暴力行為を抑えようとする彼の行動が結局はより大きな暴力を産み出してしまう……最後のところでね。だから彼はとても複雑な人物なんだ。これは悪役が単なるむさくるしい野郎であるよりもずっと興味深い。理由もわからず銃をぶっ放すだけの無法者よりもね。

 映画でも、私が受け取る脚本でも、悪役のほうにバックグラウンドの記述があるもの、悪役の行動に何らかの理由づけや正当性があるものはほとんどない。俳優として悪役を演じるときには、それでもバックグラウンドをつくり出さなければいけない。悪役を演じていても自分は正しいのだと感じられる必要がある。自分は正しくて、他の全員が誤っているのだ、と役として信じられなければいけないんだ。だから、ジーン・ハックマンの人物は最後まで自分は正しいと信じている。「私がこんな目に遭ういわれはない。家を建てているのに、なぜこんな結果になるんだ」と言う。彼はなぜこんなことになったのかを理解できないまま死んでいく。

──あなたの映画すべてが、あなたが演じたすべてのキャラクターが、ご自分の自画像であるといえるのではないのですか?

クリント・イーストウッド 私の映画すべて残らずかい? (しばらく考えて)……ああ、質問の意味はわかった。私には何ともいえない。映画を作るときは、常に自分自身をさらけだすことになるが、しかし俳優としては、自分と違うものを演ずることのほうがいつだって面白い。想像する余地があるからね。でも、無意識のうちに自分を表現しているかもしれないし、なぜ自分が無意識のうちに特定の物語に惹かれるのかについての説明にはなる。自分にとって魅力的なものに、やっぱり重点を置いているからね。まあ、そんな話にふけってみるにしても、私にはこの程度しか話せないがね。

『牛泥棒』のつらい終わり方が
私は好きだ


──『牛泥棒』があなたのいちばん好きな映画ですね。なぜなのですか?

クリント・イーストウッド なぜだろうね。私はウィリアム・ウェルマン監督の初期の映画の何本かも好きだし……。『牛泥棒』は集団の暴力、またそれがいかに伝染するものかについての映画だ。死刑はあっても裁判がない状況を描いていている。これはとてもつらい映画で、最後には無実と分かっていてもっとも親しみの持てる人物がみんな縛り首になるんだからね。でもこのつらい終わり方が、私は好きだ。もし最後に誰かが助けに来たら、このメッセージは単に言葉だけのものになってしまう。この終わり方なら、このメッセージやその悲痛さが伝わる。これは短期間で、ほとんどスタジオと、ほんのわずかなロケだけで撮られた映画で、経済的な映画作りでエモーションを伝えることができる見本のような作品だ。一部の演技は今の標準から言えばやりすぎと呼ばれることになるのだろうが、ヘンリー・フォンダの演技だとかは、今でも充分に通用するものだ。

※『牛泥棒』"THE OX-BOW INCIDENT"……『民衆の敵』(1931)で名高いウィリアム・A・ウェルマン監督がヘンリー・フォンダ主演で撮り上げ、アカデミー作品賞ノミネートされた1943年製作の西部劇。2人の放浪者がある町を通りかかったときに、地元農民が殺害され、牛が盗まれたという報せが入る。町民たちは自警団を組織し、犯人捜索を開始。やがて牛を連れていた3人組を捕らえる。西部の無法の町を舞台に集団リンチの問題を硬質な筆致で描き、第2次大戦中の〈赤狩り〉の風潮を暗に告発した異色作。

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[Q&A] クリント・イーストウッド:『スペース カウボーイ』(3)

eastwood_camera

光を見て、動きを決めて、撮影する。
私は自分でその決断を下すんだ


──あなたは撮影中(映像確認用の)モニターを使わないことで有名な数少ない監督です。

クリント・イーストウッド 最初の『恐怖のメロディ』(監督デビュー作)では使ったんだよ。その次の映画(ウィリアム・ホールデン主演の『愛のそよ風』日本未公開)でも使おうと思ったんだ。そこで気づいたんだが、俳優たちがみんな背後からモニターを見ようと殺到していたんだ。私の肩越しにモニターを見ている人がいるのはあまり愉快じゃない。「俺はもっとうまくできるな」とか、「思ったほどよく映っていない。髪を直して取り直そうか」と言ったりするんで、「いやいや、その判断は俺に任せてくれ」と言って、その場でモニターのスイッチを切ったんだ。

 以後、モニターを使うのは私自身のショットだけだ。自分を客観的に見なければならないし、それはちょっと難しい判断を迫られるからね。私が考えるに監督の仕事は、最終判断を下すことだと思う。そうした判断が下せないなら監督をやるべきじゃない。光を見て、動きを決めて、撮影する。モニターを見ないと自信がないとしたら、それはカメラオペレーターや照明を、ひいては自分の目を信頼していないことになる。信頼できないなら何かが間違っているんだ。信頼なくして映画は作れない。だから私は自分で決断を下す。自分がショットに映っているときは少々厄介だがね。それは、むしろ自分の演じている人物についてのものだ。そして長年やっていると、自然と多くを学んで慣れていくものなんだ。

──人物の撮り方で留意している点はありますか?

クリント・イーストウッド この世でいちばん簡単なのは、映画を全部シングルカット(被写体がひとりの画面)で撮ってしまうことだ。ある場面を撮る場合、彼のシングルカット、私のシングルカットというふうに撮る。これは簡単だが、いい加減飽きてしまう。一方で、2人の人物をひとつのショットで撮れば、そこで2人の人生を同時に見ることができて、2人は映画のなかでオーバーラップする。私はクロースアップがあまり好きではない。テレビではよく使われるが、映画作りとしてはまったく退屈なやり方で何の深みもないからね。クロースアップを撮るにしても、2人の人物を近づけて、その2人を「寄り」でとらえるほうが好きだ。このほうが難しいのだが、うまくいけば同じ2人をいくつかのアングルに分けて撮っても、観客はそこにカット(切れ目)があるのをほとんど感じないだろう。

 シネマスコープの水平方向に広い画面を使うときには、シングルショットはとても難しい。何かを強調しようというときは別だが。たとえばあるひとりの人物だけを見せたくて、そこに邪魔になるものが入って来てほしくない時だとかだ。こういう選択を常にしていなくてはならない。これは完全に撮影段階と編集段階における選択の問題だ。私は初期のテレビ(『ロー・ハイド』)で俳優になったからよくわかる。テレビでよくやるシングルショットに、部屋に入って、そこで一息ついて、すぐ出ていくのがある。こうして部屋に入るところから出るところまでを一緒に撮ってしまうんだ。これは映画作りとしてはとても退屈なやり方で、なんの深みも表現できない。でも当時のテレビはスピードが第一で、誰も深みのことなんて興味を持っていなかったからね。短時間にできるだけたくさん撮ってしまうことだけが重要だったんだ。しかし私は、何度かテレビを演出したときも、人物同士を近づけて一緒に撮るようにした。

──そのカメラワークについてですが、初期の頃はブルース・サーティーズと、最近はジャック・N・グリーンが撮影監督をしていますね。この映画のガレージの場面でもローキー・ライティングが効いています(シャドー部分が強調された暗い画面になっている)。『許されざる者』でも素晴らしかったですが、光の効果についてどうお考えですか。

クリント・イーストウッド 私にとって、映画とは視覚以外の要素も含まれるものだ。音であるとか……。だから時には見せすぎないで、音の方を前面に出したいと思うときがあるんだ。また別の時には、音ではなく視覚を前面に出すこともある。つまり場合によるというだけのことだ。あのガレージの場面は、2人の人物が喋っているのが聞こえて、暗くてちょっと閉所恐怖症的な感覚があって……つまり2人は閉じこめられているわけだからね。それでもガレージのドアには少しは隙間があるから、ある程度光も入っている。逆にここで光を当てすぎるとウソっぽいシーンになってしまう。そしてドアが開くと、突然明るくなって、2人は再び現実に引き戻されれる。つまり、どんなシーンにもそのシーンにふさわしい固有のアプローチがあるわけで、私はただジャック(N・グリーン)に自分がそこで何を必要としているかを伝えるだけだ。何年か前に『バード』を作ったときには、「ジャック、この映画には白黒映画のような感じがほしい」とだけいった。カラーで撮影はしたけれど、衣装や美術も、カラーにおいて白黒に該当するような感覚で選んだ。この映画(『スペース カウボーイ』)の白黒のシーンはカラーで撮影したあと、デジタル処理で白黒にしたんだ。完璧な撮影だった。

私のスタッフはみんな情熱をもっている

──ジャック・N・グリーン(シネマトグラファー)の他に、長年組んでいるチームについてもうかがいます。彼らのあなたに対する貢献とはいかがなものでしょう。

クリント・イーストウッド ヘンリー・バムステッドは本当に長い間、プロダクションデザイナー(美術監督)として活躍していて、とにかく素晴らしいんだ。彼は86歳(現91歳!)なのに、とても自由な人だし、仕事が大好きだし……アルフレッド・ヒッチコックやジョージ・ロイ・ヒルなどと組んで、いくつもアカデミー賞を獲っている(『アラバマ物語』などで受賞)。そして今でも仕事が大好きで、そういう情熱的な人が私は好きなんだ。人間が仕事への情熱を失ってしまったなら、ほかの人間に任せるべきだ。でも私のスタッフはみんなそういう情熱を持っている。ジャック・N・グリーンも、編集のジョエル・コックスもそうだ。ジョエルは編集を愛しているし、私に対してとても誠実で、私を守ってくれる。誰かが私の映画を勝手にカットしたり、テレビ用に再編集使用する時など、彼は常にその現場にいて「待ってくれ、それはやっちゃいけない」と言ってくれる(笑)。それにいつでも新しい技術だとかを私に教えてくれる。こういう人がいるなら長年一緒に仕事をしたいし、毎回必死になって彼らを獲得しようとするわけだ。あるいは似たような人を捜す。私は以前にも偉大な美術監督と一緒に仕事をした。エド(ワード)・カーファニョだ。それにヘンリー・バムステッド、この2人が私が思いつく世界最高のプロダクションデザイナーだ。ジョエルは何年も前にフェリス・ウェブスター(編集者)のアシスタントとして私と会ったが、長いつきあいになった。当時からとても意識が聡明で多くを学ぼうとしていたし、(今では)本当に多くのこと(技術的なこと)を知っている。

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[Interview] ヴィム・ヴェンダース監督: 『ランド・オブ・プレンティ』

あふれかえる混乱や痛みに
立ち向かおうと喚起している作品なんだ


 ヴィム・ヴェンダース監督の『ランド・オブ・プレンティ』予告編)には、あの9・11の傷あとが色濃く残っている。

 アフリカやイスラエルで育った少女ラナ(ミシェル・ウィリアムズ)が故郷アメリカへ帰ってきて再会するのは、元ベトナム帰還兵で、心に傷をかかえた伯父ポール(ジョン・ディール)。彼は9・11以後、人々の危機意識が薄れてしまった自由の地アメリカを守ろうと監視カメラを備えた改造ヴァンに乗って、独りで必死に警備している。

「ヨーロッパからのアメリカへの移住者でもある私にとっても9・11のテロは衝撃だった。価値観がガラガラと崩れるのを感じ、〈人生が変わるな〉と呟いたものだ。その後〈自由〉〈民主主義〉〈愛国心〉といった言葉がインフレのように飛び交った。だからこそ当時アメリカで関心があったものをすべて取り込もうと躍起になった。つまり、貧困とパラノイアと愛国心だ」

Land_of_Plenty

 iPodで音楽を聴き、iBookにデジタルカメラの画像を取り込む今どきの若者ラナの目に映る、ロサンゼルスのダウンタウンのホームレスでいっぱいの貧困地区の惨状が衝撃的だ。弱者切り捨て政策を施してきたブッシュ政権への痛烈な批判が見え隠れする。

「あのダウンタウン地区は『ミリオンダラー・ホテル』を撮影したときに見つけたエリアなのだが、その後も悲惨な状況は変わっていない。まさに人種のるつぼで、夜になればホームレスが街を埋めつくす。大都会の片隅で、巨大な富と究極の貧困が隣接する構図は相当ショッキングなものがある。

 かといって、これは〈反アメリカ映画〉ではなく、あふれかえる混乱や痛みに立ち向こうとする試みなんだ。不正や欺瞞、人を迷わせる愛国主義、誤った情報の操作といったものをこの映画では扱っている。もちろんドキュメンタリーではなくフィクションだから、〈事実〉よりもストーリーやキャラクターに重点をおいている。

 最後には、ラナやポールといった人物たちの感情を通じて、観客に〈政治的な現実の認識〉を感じ取ってもらいたかった。映画にできることといったら、変化の必要を喚起することぐらいだからね」

全米横断の旅にはアメリカの原風景を
凝縮させる音楽が必要だった


 後半、ラナとポールはヴァンに乗り、ロサンゼルスからモハヴェ砂漠の田舎町トロナへ、さらにニューヨークまで全米横断の旅に出る。レナード・コーエンの表題曲が疾走感をかもし出す! なんて〈耳がいい〉映画作家だろう。

「そう、ロードムービーになる(笑)。『パリ、テキサス』を思い起こさせもするだろう。この横断の旅に〈アメリカの風景〉を凝縮させるような音楽が必要で、レナード・コーエンのお気に入りの曲『ザ・ランド・オブ・プレンティ』がタイトルソングとして完璧だと気づいた。レナードはエンディングの曲まで提供してくれたんだよ」

【初出記事】『TV Taro』(2005年11月号)
(2004年9月@ホテル・デバンーヴェネチア・リド島にて)


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取り戻せる時間と取り戻せない時間
音楽、脚本、カメラの素晴らしさ!
この上なく残虐な結末



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